古いメモから:「キロク」の「カツヨウ」

テヅカイチロウイイタイホウダイ

記録は、パピルスが発明される前は
洞クツのかべや土に
ナニカを刻みつけたことにはじまる。
それは「ひっかきキズ」かもしれず
それをみてナニカをオモイオコセバ
それを記憶の記録と呼んでいいのかもしれない。
「記憶」という人間の脳(カラダ)が
記憶メディアの「モト」なのだ。

記憶「人間の脳内出来事」が外に、人の手によって
キザマレタのはいつだろう。
ヤハリ オスとメスのタワムレの
ヒッカキキズのようなものだろう。
次の日人はキズをみて昨日のことをオモイダス。
その具体的な社会のキズから文字は生まれた。
ハジメは象形文字。キザムという行為、
文字はキット木村拓哉を「キムタク」と呼んだりする
ショウリャクに起源があるような気がする
「紙と文字」ができ、「本」ができ
つぎにグーテンベルグが印刷をつくり、
「本」がタクサンできた。
記録のフクセイはやがて、
「エ」と「オト」のデル「映像」とうモノになる。
ここで一度「ギジ現実」の記録に
アトモドリスルヨウニミエル、
「本」という「言葉」のアツマリ「シンボル」から
自由になる記録メディア。
「エ」と「オト」のデル記録メディアはシンボルとしては自由だ。
「本」と「コトバ」でいえば いろいろの「本」だけれど、
「エ」と「オト」のある「本」はそのものでしかない不自由がある。
メディアは「文字」(平面と文字)と「エとオト」のあるものがあり、
このフタツはズイブンチガウ。
「エとオト」のメディアに「文字」はふくまれるといえば含まれるケレド、
キノウとしては別物デアル。
「映像的なエとオト」のメディアは
映画、TV、ビデオとキテ
インターネットにタドリクツ。
こ1の双方向フリーウェイは
すべてハヤクスピードアップしただけで
ナニモ新たしいモノは生み出していないけケレド
それはP.ドラッガー先生も言うよう印刷キや鉄道ができても
50年たたなければその来たるべき意味がみいだされなかったヨウニ
アト50年はカカルのだろう。
「ギジュツ」の「カイリョウ」は一朝一夕だけど
その意味がコンテンツが社会に活用されるのには時間がかかるのだ。
ハテサラところでカンジンのメディアVICのハナシにモドル。

PAGE TOP