横丁インタビューズ 立石その1

日本横丁フォーラム

yokocho interviews

立ち飲みの聖地、立石。早起きは苦手な飲んべえが、朝から列をなす理由はただ一つ、「安くて旨い」から。アーケードを透ける陽光の色が、仲見世に並ぶ総菜や洋品を、夢幻的にノスタルジックに見せている。


「鈴屋食品」長谷幸太郎さん

「栄寿司」保坂輝行さん
「松廼屋」中尾俊一さん

 

広がるハス田 テキ屋に赤線 立石の戦後復興

長谷:昭和29年に仲見世の建物を建てて、それで「仲見世共盛会」が設立されました。
それまではヤミ市の建物で、ここ辺りを仕切っていたのがコノ(頬をゆびで切る仕草)の人だったんです。テキ屋さんですね。
ここは昭和20年に強制疎開をうけて、終戦後テキ屋さんが原っぱを開いたみたいな感じでね。
そのテキヤさんは、ヤミ市の店から寺銭を取って土地代を地主さんに払わなかったらしいんです。
で、その人の代わりに来たのが、初代の会長です。
終戦直後はバラックだから建て替えなきゃいけないとなり、昭和29年に建物が完成しました。建物を建てた際、そういう人たちがやってたんじゃ自分たちの権利を守れない、というので協同組合にしようとなりました。

協同組合は法人会社だから、法律で守られる。
建物は各々個人で金を出したんです。それで建物を建て、現物出資して「立石仲見世共盛会」という協同組合を立ち上げました。翌30年の新年会で初代は亡くなったんです。
それで、中尾さんのお祖父さんが二代目の理事長になりました。

原:土地の所有者はどちらになるんでしょうか?

長谷:この辺りの昔の地図で見ると、みんな田んぼだった。ハス田です。なんにもない。
この辺りの土地は「藤野さん」という弁護士さんが持っていました。というのはたぶん、農家のひとなんかが訴訟を起こすと、その弁護料が払えない。
だから「先生、この田んぼを代わりにしてくれ」なんていうので。藤野さんも戦後まさかこんなふうに立石がなるなんて思わなかった、という話を聞いたことがあります。

日本横丁フォーラム

保坂:以前はその藤野さんが地主さんでしたが、亡くなったとき、地代を子供たちの学用資金に使ってくれと出身地に寄付しました。
寄付した当時は雄勝町でしたが、市町村合併で統合されて、いまは石巻市の所有になりました。雄勝町というのは「雄勝石」という、すずり石の生産で有名なところです。
また3.11の震災で一番被害が大きかったところの一つでもあります。

長谷:戦後、立石には「赤線地帯」ができました。
葛飾では新小岩、立石、亀有、三か所作られたんです。聞いた話によると、国がそこに住んでいた人に「ここを出ろ」と強制疎開させて赤線をつくったらしいです。

保坂:仲見世から踏切を渡ると左側に交番があります。その脇を入ったところが一帯です。細い路地になっていて、昔の面影がまだ少し残ってます。

続く

PAGE TOP