武蔵野リアル「デトロイトから武蔵野へ」_05

yokocho interviews

 

編集後記

ハモニカ横丁ミタカのハジマリハ、

 

キケンダということをイイというグループ。

ブルックリンの「荒れている」ということが
モットモ愛すべきなにかであると思うベン・シャーンが
写真にとって残して伝えたいと思うことの
好きなグループ。
(都市はなぜ魂を失ったか シャロン・ズーキン)

 

必要ならば、
法隆寺をとりこわして
停車場をつくるがいい。
我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して亡びはしないのである。武蔵野の静かな落日はなくなったが累々たるバラックの屋根に夕日が落ち、埃のために晴れた日も曇り、月夜の景観に代わってネオン・サインが光っている。ここに我々の実際の生活が魂を下している限り、これが美しくなくて、何であろうか。見給え、空には飛行機がとび、海には銅鉄が走り、高架線を電車が轟々と駈けて行く。我々の生活が健康である限り、西洋風安直なバラックを模倣して得々としても、我々の文化は健康だ。
(坂口安吾 日本文化私館より 昭和17年2月28日)

 

ヒトコト
ボクがバックミンスター・フラーについてヒトコト言うなんて
オコガマシイのダケレド
フラーは「宇宙船地球号」のボウ頭で海でソウナンした時のコトを書いている。
アレル海に体ヒトツでタダヨッテルンダケド、船からヤハリ、ホウリダサレタ木のPianoも眼の前にタダヨッテル。
マァそれに必死でつかまる話ナンダケド。
フラーはそこで「このピアノは救命具としてベストなワケジャナイ」って言うんだ。
つまり、今は眼の前にソレがあってソウナッテイルカラといって、それがベストじゃない。
モットイイ救命具をつくれるヨっていってる。
ワタシたちが毎日ツカッテル道具も、「あのソウナンしたピアノみたいな、その場シノギじゃないの」と問いかけてる。
でもアエテイエバ、ピアノも救命具としてつかえるんダヨネ。
論点がズレルケドこの「ハモニカ横丁ミタカ」はソウナンしたピアノじゃないかと思うんだ。


進化しないという確認。
VIC  中塚洋子

時は未来から過去に流れている。
弾丸列車のように現実は前のめりに時にあらがいながら進む。
何もない箱に手を差し込むと向こうからふっと握り返してくる。あなたの未来が。
廃墟のパチンコ屋の後に、現れた三鷹ハモニカ横丁は、ざらつく手触りを元手に、立ち上がった、未来志向のYOKOCHO。
物の立ち位置が見えてくると、人が行き来する。
街の流れが変わる。人がしるしを付けて、空気にもにいが加わる。
不可解なものが、秋の日差しにすでに既知のものに成っていく。
無いものが有るためには、有るものがなければならない。
パチンコ屋があり、横丁があり、今日、確かに日差しの中に人がいる。

 

ハモニカ横丁ミタカをジェイン・ジェイコブズと
ロバート・モーゼズにササゲル。
[ジェイン・ジェイコブズ]
米国ペンシルベニア州スクラントン生まれ。高速道路の急速な建設への反対運動や、都市の再開発に対する問題提起が、ジェイコブズの生涯のテーマであった。ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジに住んでいた当時、道路建設、再開発の計画が公表されると反対運動の先頭に立ち、ローワーマンハッタン高速道路の建設が中止になった1962年には反対合同協議会の議長を務めていた。第二次世界大戦前後より30年以上ニューヨーク州・市の都市計画に大きな権限があったロバート・モーゼスとの、環境保全を求める闘いは有名。
(『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用

[ロバートモーゼス]
第二次対戦前のニューヨーク市のプランナーであり、公園局長である。市内の公園、橋、道路などの建設プロジェクトをどんどん手掛け、ニューヨークの建設関連部門を一手に握り、ニューヨーク市議会だけでなく州議会、関係業者、銀行、建設会社、労働組合、メディア、果ては宗教界に至るまでを味方につけて、州知事、市長もその前に屈せさせる巨大な権力を持つに至る。
(ブログ:『小出兼久が選ぶランドスケープアーキテクトが読むべき本』から引用)

 

黄昏の空を背負って
今日ものんべえたちは集まっているだろうか。
ライター 原涼子

三鷹はかつて軍都だった。こんな風にいうと、今の高級住宅街のイメージとあまりにかけ離れていて、以外に感じられたり、眉をひそめる肩さえいるかもしれない。
けれど土地の記憶もひとの記憶も、そう簡単には上書き更新されないものだと思う。
現在のICU(国際基督教大学)の敷地には、軍用機開発の重要拠点、中島飛行機三鷹研究所があった。週末には大勢の家族連れでにぎわう武蔵野中央公園では、最盛期には五万人の人びとによって戦闘機のエンジンが製作されていた。吉祥寺ハモニカ横丁の古くからの店主のなかには、中島飛行場のメッキ工場で働いていた方や、横河電機に勤める親戚をたよって武蔵野の土地に来たという方もいる。
スタジオジブリの映画で再び耳目を集めた「零戦」のエンジンもそのおよそ3分の2が中島飛行機でライセンス生産されていた。余談になるけれど、「零戦」は世界で初めて単独無着陸大西洋横断を成功させた英雄、チャールズ・リンドバーグと太平洋戦争で対峙している。
ハモニカ横丁ミタカ(HYM)は1968年に建設されたビルをリノベーションして誕生した。以前は一階がパチンコ屋、二階はカプセルホテルとして利用されていた。建築的価値はないけれど、「通勤時や買い物帰りに目の端に入る」。地元の方にはそういう馴染み方(かた)をしていた場所だっただろう。
土地の有益な利用法はシェア=共有することだけれど、経済効率だけを追い求めてメチャクチャになってしまったマチや駅前は少なくない。
ブルトーザー型の開発、scrap & build よりあたたかみのあるやり方はあるはずなのに。
「横丁は本質として自然発生的なもの。それを意図的に作ろうなんて無茶苦茶だ」という声を聞いた。たしかにそうかもしれない。でもあえて余談を重ねて HYMの援護射撃をしたいと思う。
大戦前夜、リンドバーグはもうひとつの「世界初」を成し遂げていた。「人工心臓=グラスハート」の発明である。衰弱していく義姉の心臓を「飛行機のエンジンを積み換えるように」いれかえることはできないだろうかという発想だった。義姉の寿命には間に合わなかったけれど、彼の考えたポンプはたくさんの人の「ほんとうの心臓」になっている。
意図的に作られた横丁なんて矛盾している。それでも、「時間はかかっても、やがてほんとうの横丁のように三鷹のマチの一部になる日がくればいい」。HYM に関わった人たちは本気でみんなそう願っている。
風化してスクラッチスタイルのような風格を持ち始めていたコンクリートは、新しい横丁の意匠の一部になった。
戦闘機ではなく、武蔵野の鳥になってマチを見下ろしてみる。黄昏の空を背負って今日ものんべえたちは集まっているだろうか。そして翼よ!あれがあたらしいハモニカ横丁の灯だ!

 

アマチュアという名の前衛
VIC手塚一郎

「つくらない、デザインしない」ものをつくろうという。これは大変だと思いました。与えられた空間を神様のように原田さんがつくって、そこに僕らは寄生すればいいんだ、そう考えたらラクになりました。つくる人はなんでも自由人できるように思うけど、この空間に職人さんたちは苦労したと思います。
建築家さんの力というのが、自分の想像や図面で見ていたものを超えていく感じです。
そういうものにひっぱられていく感覚は、不思議でした。
VICをつくるきっかけは大学の時、学内有線テレビをやるにあたって、「ポータパック」という50万円のソニー製のビデオが必要でした。その時にある牧師さんがポンとお金を貸してくれたんです。その50万円がなければいまのVICは有り得なかった。それと同じで、三菱東京UFJ銀行のお話がなければ、このハモニカ横丁ミタカはなかった。モチロン、メインバンクの多摩信用金庫があってのことですが、ビジョンやコンセプトを受け取ってくれる銀行がいるというのは単純にうれしかった。支店長の遠山さんは名前もそうですが、顔のイメージもなんか「遠山の金さん」みたいで、立場を超えてご本人の資質として僕の考えをうけとめてくれたように感じました。
店は、「オイシイ!」がはじめに来て、「安いな」と感じでもらうのが一番いいんですが、でもこれがなかなか難しい。採算を合わせないと潰れてしましますが、お金だけで動くなんて人間は無理です。
三鷹のまちづくりの方や商店会の方とはなしをしてますが、マチとの関わりは少し時間がかかるかもしれないという気はします。ビジネスみたいにはいかなくて、いっしょにコーヒーを飲んだりして、少しずつ中に入っていくしかない。吉祥寺で始めたときはそういう配慮もなかったので、敵が多いみたいになってしまいましたが(笑)。今回は時間をかけてジックリと、そう思っています。

編集後記

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