横丁インタビューズ 有楽町その1

きらびやかな銀座と、再開発著しい丸の内の間に存在するのが、にわかには信じ難い空間である。戦争、新幹線、オリンピック、3.11‥‥。カマボコ型のアーチは、100年前と今をつなぐタイムトンネルだ。

 「谷ラーメン」谷 吉和さん

 都庁「以前」と都庁「以後」

谷:ここは住所が丸の内三丁目。だから「丸三横丁」という名前です。それとは別に、新幹線の高架下全部含めて、「有楽町高架下商店会」というのがあります。この通りの両側に、かつて都庁があったんです。新幹線の高架下は都庁の職員が通勤するための通路だったんです。その通路の上にも、都庁の事務所みたいなものもありました。この「丸三横丁」自体はうちの所で行き止まりで、ずっと都庁の塀がありました。ちょうど裏が郵便局だったんで、ここをひょいっと越えて行ったりして。

都庁が無くなり、もう全然変わってしまいました。まず、お店が無くなりました。いまこの横丁のつき当たりに加賀屋さんという飲み屋さんがありますが、あの辺には日本そば屋があって、床屋があって、お茶屋さんがあった。床屋さんは都庁の方がほとんどで。仕事サボって来てたんだか分からないですけど。商店会を作った経緯で言いますと、高架下は都庁の職員のために夜間も照明を点けていました。それが都庁が無くなるにあたって、全部取り外してしまうと。こんな都心で真っ暗けになったらどうするのってことになって、区議の方に相談したところ、商店会を作って区に申請するのがいいと言われました。個人で言っても補助金は出ませんけど、「ここで商売してるよ」と申請したことで、電気代くらいは出しますよとなりました。でも全額というわけではありません。

 

「すし屋横丁」の景色

谷:「すし屋横丁」という横丁は、かつての交通局と、有楽町駅のあいだにありました。もともと、うちの親父は自転車屋だったんです。丁稚奉公で新橋のオートバイ屋に行って、戦争中は陸軍の自動車部隊にいました。戦争から帰ってきて、何もなくなった数寄屋橋の川っぷちにバラックを作って商売を始めたんです。言ってみれば不法占拠みたいなものですよね。その頃の写真が店内にかけてあるものです。私自身、皇居外堀の川沿いに住んでいました。いまのプランタンデパートと読売新聞社の真ん前の川っぷちです。だから私の本籍は中央区銀座なんです。1階がお店で2階は一間。あとは台所しかなくて、トイレは共同というバラックでした。ゴミは後ろの川に全部捨てろなんて。かつて正月の箱根駅伝は、読売新聞社前がスタートとゴールの地点でした。だから親父が言うには、「正月の駅伝ていうのは、2階から顔を出せば、出発も到着も全部見えた」って。いまの高架下の横丁に入った時もまだ自転車屋でした。昭和42年に自転車屋からラーメン屋に商売替えしました。横丁に入ったきっかけは、外堀を埋め立てるということで、どうしようかってなったときに、高架下にまだ空きがあったので、昭和31年頃、ならびの飲み屋さんなんかと何軒か一緒にこちらに入ったんです。「すし屋横丁」にあった店の多くが、交通会館の地下と、この高架下に流れています。「ミルクワンタン」さんが東京駅側に、「末廣」さんは入口の方に、「山楽」さんも横丁にいました。行かれると分かりますが、いま、交通会館の下はギャラリーが多くなっています。というのも、御年で亡くなったりして、返したお店が多いからなんです。

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レンガアーチの耐用年数

原:この商店会はJRの土地なんですね。

谷:そうですね。昔は国鉄、いまはJR。新幹線ができるまでは、うちの並びの店が5、6軒あるだけ。東海道線までが高架で、その脇はストーンと青空が見えていました。それが昭和39年、オリンピックの年に新幹線を作るにあたって高架にしました。このガード自体は今年で130年くらいになりますか。アーチはカマボコ状に見えますが、本当の基礎は3メートル下です。松の木をヨイトマケで固めて、その上に土をかぶせて基礎にして。

手塚:ドイツから技師を呼んで、レンガは渋沢栄一で。その頃の工事って壮大な計画だったんですね。

谷:ただ、100年が経ち、3.11もあって、水がどんどんしみこむようになり、ここもJRが耐震補強工事をすることになりました。やり方としてはアーチの内べりに厚さ50センチのコンクリートを貼る。そうすると店内がだいぶ低くなってしまうので、3段分くらい階段にしてやっと高さをとるという感じです。

原:それでまたこちらに戻ってくるんですか?

谷:いや、こないです。戻ってくるところもあるらしいですけど。我々は借地人なんですよね。で、こんど移るところはテナントになるわけで、そうすると、払うものが倍になります。いまは地代ですけど、こんどは家賃になります。また、借地といいながらも、上(鉄道)があるので、財産権はゼロなんですよね。JRは借地をどんどんなくしていますよね。それで、秋葉原から御徒町の間みたいに、自前で開発してます。今度も「耐震」だから、お上の方から「やらなきゃイカン」と来たわけで、JRとしても大義名分ができちゃったもんだから。組合があったとしても対処のしようがないんですよね。

原:2020年のオリンピックに向けて街の開発が進んでいるのかと思っていましたが、じつは東日本の震災の影響が大きいんですね。

谷:「100年経っている」という経年劣化もあるでしょうけど、このレンガ橋を造った当初は1日に数本しか列車が走らなかった。それが今は、2分に一本です。僕が思うには、電車が冷房を入れるようになってから、レンガの劣化が進んだんじゃないかと。一年中電車が水をまいて走っているわけですから。その前は、ここも水漏れなんかしなかった。レンガの柱に「水の道」ができちゃったんじゃないかと思います。かつては高架下は雨水管で流すだけで済んでいました。横丁のトイレも昔はキレイなもんだったんですけど、水の通り道になっちゃったからひどいもんです。木が腐ってドアが付けられなくなってしまって、見ていただければ分かりますが、ドアが逆さまに付いてるんです。

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