「僕がなぜ横丁に建物をつくるのか ――戦争と時間と建築の関係」
塚本由晴さん
東京工業大学大学院教授/アトリ・エワン
塚本:横丁は素直に、そこで飲んで楽しいですよね。いろんな人がいて、敷居が低いです。もちろん、閉鎖的なところもあると思いますが、「酒さえ飲めれば入っていける」、そんな寛容さがあります。あとは建築として、街として、「脆弱」です。人が関わり続けることによって「あるバランス」が維持されている、その関係が面白いです。モノと人が補い合うような感じです。いまの世の中の建築は、人がいなくてもしっかりしている、というものにどんどんなっています。誰が来ても、誰が使っても、安全に安心して使える。それは大事なことですが、同時に行き過ぎると、人を全くあてにしなくなる。「どうせあなた方にはできないんだから、建築の方でぜんぶ面倒をみますよ」と。そこには「空っぽな人間」が想定されていることになるので、そういう人が増えるんですよね。「空っぽな人間」を再生産するための空間装置になっていくのが、建築が辿ってきた近代化の中で面白くない部分です。私としては、建築をそういうものにしたくない。ハモニカ横丁は弱くて情けないけれども、人の関わりが非常に心地よいというか、楽しいというか。生き生きしていますよね。
あとは複雑さです。多様なものが入り込んでもへっちゃらです。人がいなくても成立するようなものは、どんどん整理する方向に進んで、予期せぬものが入ってくることを嫌う。排除するような感じになってきます。ヒマ人なんかいられない空間が増えていますが、横丁は「ヒマ人のための空間」です。「ヒマだな。ハモニカでも行くか」みたいなね。
横丁は都市計画的にみれば、ここは「お目こぼし」のような場所です。「すでにあったから」、「人気があって、街のアイデンティティーの一つでもあるから」。なんとかこの状態を維持しよう、ということなんですが、通常の方法でこの横丁を、地震や火事に対しても強い街にしようと、現在の法律に合うかたちでやるとすると、「全部壊して建て直す」ことになるんです。するといまのハモニカ横丁の雰囲気は失われてしまう。ある程度似たようなものになるかもしれないけど、歴史的な蓄積を含めた街の魅力がなくなってしまいます。「投薬したら死んでしまった」みたいなことになりかねません。
横丁という場所は面白い問題を突き付けているんです。「建築って何なのか」「都市って何なのか」「都市計画ってなんなのか」ということを考え直す、大事なきっかけになると僕は思っています。もし火事が起きて、数軒延焼するようなことになると、「ホレ見たことか」となる。もし人の命にかかわるようなことになると、あっという間に社会的に不利な立場に立たされます。ですから、とにかく「火事が起こらない」「延焼しない」「人の命が損なわれることがない」、ということを続けない限り、この横丁は生き永らえないんです。そのために、ハモニカ横丁の場合、東京電力と一緒にラックの作り直しをしていますし、ガス管もある程度改善されている。あとはキッチン周りを燃えない材料で作るとか、電気メーターを屋外につけて、外からも漏電の確認ができるようにするとか、そういう「細々としたハードウエア」の変更を、継続的にやっていく必要があると思います。
たとえばハモニカ横丁は、最初から計画しようと思って計画出来るものではなく、それぞれの時代の中で、それぞれの人びとが、一生懸命生きようとした積み重ねで、「たまたま」こうなっている。この「たまたま」がすごく大事で、時間的蓄積がないと出てこないものでもあるし、「単独の主体」つまり、ある誰かの考えではできないことです。この場所はつねにサポーターを持ち続けている。それはある種の「共感」を軸にして、集まってきているものだと思うんです。その「共感」みたいなものって、お金があれば物が買えて自分の成功を確かめられて、というような「消費」を通して手に入れられないものです。もう一つが歴史です。闇市的な構造、つまり戦争のあとの空間というのが、独特の形で保存されています。広島のピースセンターや、沖縄のひめゆりの塔に行って戦争の話を聞くのもいいですが、ハモニカ横丁にきて、戦争当時の話を聞くのもいいと思うんです。そういう場所なんですよね。ここは時間の尺度が長い。ここで飲んでいると、戦争直後とつながっている感じです。1945年と2015年、間は70年ですが、この間が「時間」なんです。
仕事柄、いろんな国に行きますが、場所場所で、その国の人が、「どこで、何を楽しんでいるか」、それ見るのがとても好きなんです。「どうすれば自分もそこに加わらせてもらえるかな」みたいに考えながら、空間に参加していくのが楽しくて。それぞれの街に楽しみがあるんです。そこに居る人たちはすごくリラックスしていて、朗らかで、幸せな状態なんです。そういう場所がどれくらいあるかというので、その街の「幸せ度」みたいなものは決まると思います。アメリカの街なんてピリピリしているところも多いですが、ボストンなんかの野球場に行くと、みんなすごくホッとしているんです。一応、ボディチェックもありますし、食い物なんかもハンバーガーとかポップコーンとか、大したものは売ってないけど、みんなはしゃいでいますよね。
いま、ホームグロウンテロリストなんかの話を聞くと、個人的な人の背景って、見た目ではほとんど分からないですよね。どうやってそれを想像するかということが、ものすごく大事になってきます。吉祥寺とか高円寺とか荻窪とか、東京でも、大資本があまり入っていなくて、個人が開いた店がまだ多く残っているのっていいなと思うのは、例えば「何で高円寺に沖縄料理屋があるんだろう?」って、それは店主が沖縄出身だからなんです。高円寺に沖縄料理屋があるというのは、沖縄の人がそこに住みついて、商売を始めたということで、店のうしろに沖縄のモノや人を含んだネットワークが繋がっている。店を介して、我々はそのネットワークに参加させてもらうわけです。パーソナルな背景が露出しているものとして街場の店を見ていく、というのも面白いなと最近思っています。
日本の建築家のひとつの特徴は、キャリアが若いうちは住宅をつくるんです。親戚の家とか自分の兄弟の家とか。そうやって作品をつくるパターンが反復されているんですけど、それも元をたどれば「戦争」があったからなんです。戦争がああいう形で終結したために、街を、都市計画を、未来に向けて大々的にやるということができませんでした。GHQに押さえられていますから。でも街は再建されなくてはいけない。だから皆さんやれる人からやってくださいと。集合住宅というのは、あるまとまった資本が投資されないとできませんが、住宅の場合は、個人の能力で土地を買って建てることができる。戦後、「戸建て住宅の反復」で街が復興した、というのが大きいです。1990年代後半、若い世代が庭のない小さい家でもいいから、都心に住みたいという都心回帰の傾向と、我々アトリエワンが仕事を始めたタイミングが重なった。それはある意味、戦争直後に急ごしらえで建てられた建物の世代交代をやっている、という感じでした。必ずしも同じオーナーでなくても土地が細分化されて小さくなったものを、よそから来た人が買って新しい家を建て、街が更新されていく。ですから、現在の我々を取り囲んでいる条件を深く掘り下げていくことで、「戦争」の影響下に未だにあるのかもしれないと感じています。