横丁インタビューズ 立石その3

yokocho interviews

横丁愛好家最大の懸念
「立石は再開発されるのか?」

原:新聞等でたびたび聞かれる「再開発」のはなしは、どこまで進んでいるんでしょうか?

長谷:立石駅前は北側と南側が線路を挟んで別れていますが、南側の大きいアーケードの半分からヨーカドーの先の私道までの一区画と、駅向こうの北側のバス通り拡幅に関しては準備組合が立ち上がっています。
こちらはいま、東側と西側に分かれていますが西側の準備組合を立ち上げようという段階です。

保坂:京成線の高架は四ツ木まで上がっていて、立石で下りて、また青砥に上がっている。
いまここだけが下がっている状態なので、連続高架にするということになっています。

手塚:駅前をロータリーにしてビル化して、そこに「入る」なんてのは野暮だな、みたいなのはあるんですか?

長谷:やはりあるんじゃないでしょうかね。元々、立石っていうところは、焼け出されてきた都心の人が多いから、昔から舌が肥えているんです。物価も安いですし。
ただ、いまは物販がほとんどダメなんです。「○○屋」がほとんどダメ。魚屋、八百屋、米屋、材木屋。それがビルに入って経費かかってじゃやっていけないっていうのが実情じゃないかな。私たちは惰性でやっているようなもので、子供や孫はみんな勤めに出ちゃうんです。

中尾:「私の代で終わり」という人が多いです。この仲見世の建て替えは何回か考えているんですが、道路幅が狭くて出来ない。
いままでのように、皆さん同じ条件で、という風にはいかなくなってしまう。そうなると再開発にならざるを得ないという話にもなってきます。

手塚:提案の一つとしては、京都は道路幅のないところでも「特区化」して建て替えられています。
理由としては、まず防災上かなりの問題があるということ。もう一つは「この町並みがいいんじゃないの?」ということです。道路幅を広くした瞬間に、この良さが終わってしまうのではないかと。
もしそういう提案が、どこかの横丁の中でできればと思うんですが。

保坂:みんな商売的には「このままでいきたい」。
けど、今のままじゃ建物を維持できなくなっている。「じゃあどうする」となって、そこで詰まってしまうんです。

長谷:ここは東京都が発表した「危険地帯11か所」というのに入っています。
建物はアーケードの柱に寄りかかってもってるだけのようなものです。3.11の時「仲見世は大丈夫ですか?」と、区が一番最初にここに見にきました。

保坂:一番怖いのは火災です。長屋で、建物そのものがくっついているので棟が煙突になってしまいます。
アーケードも補強補強です。まめにペンキを塗ったりしてますが、結構お金がかかるので、補助金もらえた時にやっています。

保坂:ここは仮に共同ビルになったとしても、そちらに移るという人はほとんどいないと思います。
土地は借りていますし、奥行き一間半、間口二間の店は、ビル化されたらなくなっちゃいますから。

日本横丁フォーラム手塚:どの横丁をみても、「こういう雰囲気がいいな」と思うんですが、老朽化していて、このままではいかないということが勿論、わかります。
じゃあ共同ビル化しようという時のプランが大抵ひどいんです。世界には面白いことを考える建築家がたくさんいるので、もっと公にプランをやれば、「小さくて狭い」特性を活かした、みんなが来てくれるようなものができると思うんですが、なかなかそっちにはいかない。
簡単に計算して、「ハイ家賃いくら」となってしまうようです。

むかしもいまも。
変わらぬ立ち飲みの聖地

手塚:僕はヤミ市の頃の無法な感じの仕切り方が、案外面白いんじゃないかとひそかに思っているんです。

長谷:終戦後、1〜2か月はそういう時期があったでしょうね。
豊臣秀吉時代に山賊が抑えたのと同じで。その当時ヤクザはまだそんなに大きくもないし、素人にあんまり手をだすんじゃねえみたいのもあった。いまここはヤクザはいないんですよ。

手塚:いまはヤクザやっていくのも大変らしいですね。テキ屋も路上でやれないですし。

保坂:立石もかつては縁日がすごかったんです。7のつく日は大通りのところを300位のテキ屋さんが店を出して。

中尾:もともとは植木市でした。

保坂:最初は植木市で、大人の人が結構出ていました。そのうちお菓子のテキ屋さんがたくさん出て。
それも、道路を直すのと、電線を使っちゃダメという理由で一切なくなってしまいました。

長谷:ここも戦後一時は、飲み屋が半分以上でした。むかし、「ニコヨン(※1)」っていたでしょう?終戦後葛飾警察署の裏に、安定所があったんです。みんなそこに行って金もらって、ここで一杯飲んで、ソッチの方に行くという流れで。
赤線が無くなってから一杯飲み屋がなくなりました。
(※1)日雇い労働者を意味して用いられた俗語

保坂:あとは売血。売血して一杯飲むって多かったんです。
それから、大きなキャバレーがあったんです。赤線の検査場の跡地に。100人くらいの女の子がいて。キャバレーがなくなって、女の子たちがママさんになって、「呑んべ横丁」の半数以上の店を始めたんです。
パーマ屋さんも沢山ありました。女の子は自分で髪をやらないので。そういう華やかな時代があったんですよね。

手塚:立石は何となく佇まいが、本格的な昔の横丁の雰囲気が残っています。各横丁、場所によって皆さん人柄が違っていますが、こちらはのんびりといい感じだなと思います。たぶん、東京中の横丁で、ここが一番いいと言われるようになると、いや、もうなってるのかな?これ程までというのはないですから、「みんな来たら?」と言いたいです。

原:カメラを持った外国人の方を何人も見かけました。

保坂:外国の方も増えています。
お酒好きな人がたくさんいらっしゃって、飲み屋さんは朝から行列です。

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