横丁インタビューズ 立石その2

日本横丁フォーラム

yokocho interviews

「自分たちで建てて、それを組合の仕組みに移行する」

手塚:建物は組合の所有ですか?

保坂:建物は組合の所有です。
権利は間口当たりです。組合費も「賦課金」という形で、総会で「今年はこれだけの金額を使う」と予算が決まり、それに合わせて間口に応じた額を払っていただくという。

中尾:テナントは、基本的には組合員にならないと入れないです。組合費は「家賃」という感覚ではなく、「運営費」なので、利益を上げる訳はないんです。
お店の権利を売るといっても「営業権」だけを売る形になります。新しく入ったひとは、「営業権」を手に入れ出資証明書を渡されるだけです。

長谷:盛んな時は高く売れる。ただ、商売が落ち込んでくると、安くなってしまいます。
店舗自体が狭くて、奥行が一間四尺です。奥行はみんな同じ。一時、大手が買い占めに入るような動きがありました。そこで「1店舗7.5間まで」という規制をしました。

保坂:建て替えに関しては、組合が「やれ」といえば建て替えられますが、個人ではできません。
フランチャイズやクリーニング屋さんは入れないという規約もあります。ここは組合員が「大家であって、店子」だということで、みんな一律です。

ダッコちゃんとキューピーちゃん

原:仲見世ができたころの商売の様子はどうだったんでしょう?

保坂:うちの店(栄寿司)は、いまは「宇ち多゛(もつ焼き屋)」の前ですが、前身はそこじゃなくて、駅前通りのところで、普通の寿司屋をやっていたんです。
こっちは若い衆の修行場みたいに、相対してやるという形にして。立ち喰い寿司はかなり早い時期からやっていました。昭和33年からです。
その頃、立ち喰い寿司はそんなになかったですから、高かったんです。当時、一人前のお寿司が70円とか80円の時代に、一貫10円でやってました。うちのやり方の真似をして店開いたんだっていう方が結構いますよね。
私は寿司屋の会長もやっているんですが、すごく数が減っています。かつてはこの辺に120軒ほどあったんですが、いまは30軒を割りました。
うちはおかげさまで、いま三代目が跡を継いで店をやっています。

中尾:うちの初代のじいさんは、甘味以外も色々やったみたいですね。ヤミ市の頃は、よしず張りの露店で。店のマークも自分で金属を打ち抜いて作ったりしていたそうです。
新し物好きで、山っ気が多かったらしい。でも最近は商売がキツイですね。常連さんもお年寄りの方ばかりで。

長谷:うちは親父が北支から復員してきて、500円もらって博多に上陸しました。
ゆで卵が好きだったから「1個いくら?」って聞いたら25円で、20個食えばもらってきた金はもうなくなっちゃう。マラリアになって、田舎に行ったけど、現金封鎖で金はない。
それで、こんにゃく売ったり、漬物屋やったりして。昔は乾物が主体だったんですけど、いまはみんな乾物も食わないですからね。

原:物販の繁盛期はいつ頃だったんでしょうか?

長谷:昭和20年から昭和50年代頃です。
駅前にヨーカドーができたのは昭和39年です。立石のヨーカドーはいま1号店になったんです。千住が1号店でしたが、再開発でなくなりました。

原:立石は玩具メーカーのタカラやトミーの出発地でもあります。

保坂:タカラさんは「ダッコちゃん」と「フラフープ」で一世を風靡しました。
トミーさんはミニカーとか。「キューピーちゃん」の9割以上がここらで生産されてました。
けとばし(フットプレス、打ち抜き加工機械)、それから皮屋さん、セルロイド。工場関係の人が住むアパートもありましたし、仕事終わりで飲みに来る方もいました。ゴム関係の会社もありました。

続く

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