横丁インタビューズ 新橋その1

焼き鳥の煙に燻された赤ちょうちんは、なぜ人を惹きつけるのだろう。千鳥足のサラリーマンは、SLの警笛に背中を押されながら、また、縄のれんをくぐる。原初的な横丁の景色が、このビルの中にいまも広がっている。

「酒処 初藤」 真部和昌さん

戦後のマーケット、東京都主導で再開発される 

真部:このビルは東京都の再開発ビルで昭和46年にオープンしました。それ以前はこの駅前に、本当に細かい店が、おそらく200軒以上あったわけです。トイレは共同でした。いまでも烏森口には共同のトイレがあります。駅前広場があって、場外馬券売り場がありました。いまSLがあるあたりです。SLは昭和40年代に持ってきたものです。

原:こちらの土地は東京都の所有なんですか?

真部:土地は各所有者です。東京都が一括してビルを建てようと主導しましたが、もともとそれぞれの地権者、地主さんがいました。その方たちをビルに入れましょうと。その際、「あなた方は優先に入ってください。ただし今度は高くなりますよ」ということです。それまでは安い家賃でしたが、土地を売買して大きいビルになるとそうはいかなくなる。このビルに入るにあたっては「年賦」です。面積に応じて、東京都から借りて、ここに入ったわけです。そして商売しながら、東京都に借りたお金を払っていくということです。

手塚:払い終わると自分の名義になるということなんですね。

真部:自分の名義に替えられます。それまでは自分の名義になりません。このビルができる前のマーケットに、うちの店はありました。昭和23年に親父が始めまして、屋号は今とは違います。

このビルは駅前で場所がいいですから、借り手は簡単に見つかります。ただ、大家さんの値段と、入るテナントさんの値段の折り合いが、特に店舗階は難しいです。ただ、ビル自体も40年経って老朽化もありますし、家賃はそう高くないです。吉祥寺なんかは土地柄、「住みたい街」でもありますし、地代も上がると思います。ここは駅に面して恵まれてはいるんですけど、土地柄、「オジンの街」なんです昔から。焼き鳥と、赤ちょうちんの。

 

非ターミナルの新橋 マーケット時代のすがた

手塚:この新橋というところは、地図上、交通の要衝という感じだったんですか?ここで商売を始めるにあたって、どういう場所だったんでしょうか?

真部:ここはターミナル駅ではないんです。昔の国鉄と、唯一地下鉄が通っていました。地下鉄と国鉄が繋がっているだけの駅なんです。池袋、新宿、渋谷は私鉄がたくさん繋がって、ターミナルとして大きく発展しています。ただここはオフィス街として、虎ノ門や内幸町を控えています。かつて、内幸町は外務省があり、NHKがあり、虎ノ門は官庁街です。ですから「サラリーマンの街」というイメージは昔からあったんですね。赤ちょうちんの飲み屋さんがたくさんある繁華街で、歓楽街というのはなかった。昔、関東松田組というのが、ここでドンパチやったんです。中国人と韓国人と、場所取りの対立があったんですね。それが大きく新聞に載りました。

手塚:いまの話ですと、野菜を売るマーケットというより、飲み屋のマーケットだった。

真部:そうですね。間口は一間。一坪か二坪の店で、バラックの二階建て。三階建てもありましたが違法建築です。上に住んでいる方もいました。従業員なんかは住み込みです。今じゃ考えられないですよね。うちの店も板前さんなんか、住み込みの方が多かったんです。地方から出てきてアパートを借りるお金がないですから、食うのはまかないで食べられますし。

手塚:マーケット当時の図を見ますと、キャバレーなんかも結構あるんですね。

真部:うちの店も、キャバレーではないですが、女性の方を置いていました。「大衆酒場」ということで、席があるとそこに和服を着た女性がお酌をして接待する。そういう店は多かったですよ。いまのキャバクラなんてのより楽しかったかもしれないですね。

手塚:戦前からこの場所に土地をお持ちだったんですか?

真部:いえ、戦後に借りたんです。テナントでした。

手塚:大家さんは戦前からここを持っていたのでしょうか?ヤミ市って何もない地べたに違法に勝手に縄を張って、というのが多いですが。

真部:そういうところもありました。戦争で誰の持ち物か分からなくなってしまった土地もありましたから、早いもの勝ちだっていうんで、柱一本立てて店を始めれば「俺のものだ」という。

続く

 

 

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